座右の銘

※某インタビューサイトの焼き直し。

「責難は成事にあらず」
中国の古典に由来する言葉でもなんでもなく、小野不由美著『華胥の幽夢』の中の言葉。

華胥の幽夢 十二国記 (講談社X文庫)

華胥の幽夢 十二国記 (講談社X文庫)

華胥の幽夢 十二国記 (講談社文庫)

華胥の幽夢 十二国記 (講談社文庫)

「責難は成事にあらず」、責めることは何かを成すことではない。批判をするだけは何かを成すことではない。批判をするなら対案を出せ、というのが簡単な解釈。インターネットで検索しても、似たような意味がたくさんある。でも、私は、それ以上に深い意味があると思っている。

物語のあらすじ。

かつて才という国に厳しい税をしいた王がいた。政治は腐敗し、国民は苦しい生活を強いられていた。その中で、蜂起して、王に選ばれた清廉潔白な新王。新王は、前王のように国民に厳しい税は課さなかった。腐敗も許さなかった。法に触れるようなことをした国民は厳しく処罰した。新王も、その側近も、それが正しい道だと信じて疑わなかった。なぜならば前王とは違うから。新王たちは信じた。自分たちが作る国こそが理想だと。税が軽く、王は国民に負担を強いない。全ての事柄は明るい光の下に決められ、不正を働く者もおらず、人の道に悖る者もいない。そんな国。

けれど、新王たちの思いとは裏腹に、やがて、国は衰退していく。

税が軽いとはどういうことか。本来、税とは、国民一人一人が成せないことを成すためにある。備えきれない災害に備えるため、広く教育を施すため。税が軽ければ、道を整備することも、旱魃や洪水に備えることも、教育を受けさせることもできない。「税は軽いほうがいい、それはきっと間違いなく理想なんでしょう。でも本当に税を軽くすれば、民を潤す事もできなくなります。」(講談社 ティーンズハート版 306P)

厳格な刑罰をしくとはどういうことか。生まれてこの方、嘘をついたことがない者がいるだろうか。怠けたことのない者がいるだろうか。あるいは、不注意と不運が重なり、人を傷つけてしまった者はどうなるのだろうか。「だって、そうだろう? 兄の思い描く国には、愚かで無能な者の居場所などないんだ。官吏はすべて道を弁え、決して私欲に溺れず勤勉で有能でなければならない。民はすべて道を守り、善良で謙虚で、働き者でなければならない。」(中略)「それが兄の目指す国なら、私にとって牢獄に等しい」(講談社 ティーンズハート版 240P)


何か誰かを批判し、そして新王たちは対案を出し、しかも自らが正当な方法でもって玉座を手に入れた。それでもうまくいかなかった。なぜか? 新王たちは税や法を軽くすることはどういうことか、逆に重くすることはどういうことか、ということ、即ち税や法とは何を成すためにあるのか、ということを考えなかった。手段であるべきなのに、目的にしていた。自分たちが目的だと思っていた理想の国は、前王の作った国の否定形でしかなかった。


批判するだけなら簡単。純粋なる対案(対立案)も出すのも実は簡単。本当は、自分の頭でたくさんのことを吟味して、そして対案を出し、実行しなくては意味がないのかもしれない。

と自戒として言い訊かせながら仕事場に向かう日々。


この言葉ばっかりは、辞典に載ってもいいくらいだと思っている。