一人称で生きる

去年からの私のテーマは「自由意思を持って生きる」ということだったといま振り返ると思う。森博嗣作品を読みあさった結果、「意思」とは?に考えがいたり、そして『自由をつくる 自在に生きる』を読んで非常に感銘を受けた。『夜と霧』や『7つの習慣』の1つ目の「主体性を発揮する」を思い出した。自分が選択していることでも、知らず知らずのうちに何かによって決められていることがある。それは世間体だったり、あるいは自分の固定観念だったり。

意思を持つとはどういうことだろう。

年末から、異動して会社の意思決定の場に近くなった。そこで発言できないのはどうしてなのか。考えた結果、私は会社をどうしたいのか考えてなかったからだ、と思った。会社をどうしたいのか考えなければ、目指すべき場所もなく、よって手段もない。注意すべきなのは、会社をどう「すべき」なのかではないということ、会社をどう「したい」のかということ。「すべき」論はある程度の経験と知識があれば語れるんだけど、結局それって、一人称じゃなくて受け身だったり三人称だったりで語られてしまうから、どうしても軽く感じちゃう。

そう気づいてから、社内のことも、世の中のことも、大半が受け身か三人称であることに気づいた。意思決定者が決められない、決める材料を持たない。そういうことも往々にしてあるのだと。

一人称で語れる人間になりたい。一人称で生きたい。

それは日本では出る杭になって空気を読まないことなのかもしれないけど、でも。せめて受け身や三人称で語るときでも、一人称の「私」が、受け身や三人称で話す事を選択した結果でいたい。

昨年の夏からの考え事です。