世界の中心で愛を叫ぶ

高校生の頃、『世界の中心で愛を叫ぶ』という小説と映画が流行って、受験勉強の合間を縫って映画を見た記憶がある。その頃の私は、当時の彼氏が大好きで(というより、自分に足りない物を埋めようとして依存気味だったと思う)、なんて哀しいのに優しい映画なんだ、と思った。

哀しい、と思ったのは、主人公の朔太郎(大沢たかお)が30歳を過ぎて、新しい女性と一緒にいたこと。永遠に亜紀だけを愛し続けているサクちゃんがいなかったこと。優しい、と思ったのは、初恋の人を亡くすという経験をしても、人はまた恋ができるんだということ。

でも、25歳になって思う。あの映画はただひたすら優しかったなぁ、と。大人の作った映画だなぁ、と。

私は今、当時の彼氏とは別れ、違う人と付き合っている。当時の彼氏となぜ駄目になったのか、今となっては理由は定かではないけど、お互い成長して変わってしまったね、というのが一番の気持ち。だけど、高校生の頃の彼氏のことが憎くなった訳では決してなく、多分、今、目の前にあらわれても、仲良く飲みに行って、楽しい時間を過ごせると思う。でも、恋人にはなれない。だけど一緒に過ごした時間は、それはそれで大事な思い出なのです。嘘偽りなく。

小学生や中高生の頃は、永遠、と言う言葉が大好きだった。さしあたり大学受験、という未来のために生きていたし、「将来のために我慢」という言葉もたくさん使われた。実際、夢みがちではなかったけど、将来どうたって生きていこう、食っていこう、と考えていたし、学生時代の友達は一生の友達なのだから、と言われ、そうか、と思っていた。友達には毎日会えたし、学校が違ってしまっても、住んでいる場所は変わらないからすぐに会いに行けた。

だけど、大学生になって、地元を離れると、一度会ったらもう二度と会えない人にたくさん会うようになった。もう二度と会う機会のない人と楽しくお酒を飲んで、楽しく話し、そしてその日のうちに別れる経験が積み重なっていった。「今」が「未来」に繋がっていたように思えていた高校生までとは大違いだった。私は戸惑った。だけど、人間は不思議なものでだんだん慣れていくのだ。「今」の自分と「未来」の自分は繋がっているけど、環境は不連続なことに。自分ですら変わっていくことに。

高校生の朔太郎は亜紀を愛していた。それは間違いないだろう。だけれど、大人になった朔太郎は、律子を愛している。それも間違いないと思う。

そういうことをやっと受け入れられるようになってきた、と今日仕事帰りにぼんやりと歩きながら思ったのです。

(なぜセカチューのことを思い出したのかというと、職場で大沢たかおの話をしたから、というのがなんとも現実的な話。日記も、写真みたいに切り取り方で全然変わってくるね)